また脳死による臓器移植!先進医療があるべき世界を作ろう。
15歳未満の脳死からの臓器移植がまた決まった。未来の医療は間違いなく現在に近づいてきている。
神を冒涜する行為だという人もいる。一方で(特に患者を家族に持つ人々にとっては)「大切な人の命を救うためには移植しかないのだ、変な価値観を持ち込まないで欲しい」という人もいるだろう。
僕はどちらの味方でもないし、移植医療の倫理的な是非について問うつもりは全くない。
倫理的な問題はさておき、移植医療は人類が過去に不可能とされていた治療を可能とする技術の集大成であり先進治療ということに、多くの人は同意してくれると思う。
先進医療はクレイジーな発想から生まれる。臓器を人から人に移すとかどうかしているよ。
不可能というのは単なる思い込みなのではないか、そういうクレイジーな人々が世界をリードするのである。不可能という言葉に違和感を感じるパイオニアの存在が必ずあるのだ。
先端医療が発展するためには、クレイジーさが必要なのだろうか?
その答えの前に、移植医療以外の先進医療について、少し紹介させてほしい。
独裁国家イタリアで行われた人体実験の遺物
電気ショック療法(electroconvulsive therapy:ECT)という治療方法をご存じだろうか。
頭の左側と右側に電極をセットして、900mAのパルス電流を流すのである。重度の鬱病患者に対して行う。実際に見たことがあるけれど、効果は劇的で鬱病がみるみる改善するのである。
この先進治療はナチスドイツが台頭していた頃のイタリアで開発されたのだ。悪名高い独裁者であるムッソリーニ伊首相の下で行われた人体実験の産物である。
人体実験は絶対肯定され得ない。それはどの時代でも許されるものでは無い。しかし、幸か不幸か生まれてしまったのだ。
うつ病患者の最後の砦として、悩める多くの患者を助けている。
(参考)
カレー事件のヒ素が薬
和歌山カレー事件をご存じだろうか。カレーにヒ素を混ぜたという、これまたクレイジーな事件である。ところが今回の功労者はクレイジーな林ますみ被告では無い。
功労者はこの土地で診療にあたっていたクレイジーな医師達だった。
(picture from wikipedia)
中国のハルピン市である。クレイジーな実験は1970年頃に行われた。
「謎の漢方薬(ヒ素を含む)を抗がん剤として使えるのではないか」
さまざまな癌患者に投与した。その患者の数1000人を越えるといわれている。そうすると白血病には有効であることが判明したのだ!
他の癌患者はどうなったのか知らない。やはりこれも人体実験であろう。1970年といえば、大阪万博の年だ。
割と最近まで人権を無視した実験が行われていたのはさておき、ヒ素(正確な名前は亜ヒ酸)は白血病患者の特効薬として多くの患者の命を延ばしている。
(参考)
薬学部の研究_科学研究費補助金_Case Study 11|日本大学薬学部
科学にクレイジーはつきものなのか
科学の進歩は、このような倫理観の欠けた実験なくしてはだめなのだろうか?
答えは否であろう。
いや、否である世界を作らねばならない、というのが正しい。
たしかに、倫理観の欠けた実験の結果、紹介したような素晴らしい医療が生まれた。しかし失ったものも大きい。
精神患者に対する人権無視、わらにもすがる思いの癌患者に対する無慈悲な治療で犠牲になった人々を思うと心が痛む。
これからの世界は僕たちが作る
臓器医療に対して批判的な意見を無視してはいけないと思っている。ブレーキが存在するからこそ、先進医療は正しく進歩していく。
これからの科学者(医療者)はクレイジーになってはいけない。
だが、加速する知的好奇心やそれを満たすための資金提供者(政府だったり金持ち企業だったり)の存在があるゆえに、クレイジーさと隣り合わせなのもまた、科学者の宿命なのだ。科学者は本質的に好奇心旺盛なのだから。
iPS細胞による再生医療が数十年先に普及し始めるだろう。臓器なんてたやすく手に入る時代もくるだろう。
そうなれば間違いなく臓器の価値が下がるのである。それでも僕たちが生まれ持ったものを軽んじることはないようにしないといけない。
この先クレイジーな人が誕生するのではと少し心配な気持ちになるが、一人一人がブレーキになったり、他の人の意見に耳を傾ける姿勢があったりすれば、先進医療の未来は明るいはずだ。